野球の歴史
ここでは、野球の歴史について紹介します。もちろん、スコアブックについても触れます。スコアの歴史は野球の歴史です。野球の中にスコアが入っているのですから。
ルールの始まり
野球は1839年にニューヨークのクーパースタウンで、アブナー・ダブルディーという人によって始まりました。クーパーズタウンという土地は、現在は野球殿堂があり、夏のリゾート地として賑わっいます。
競技として始まったのは、1845年にアレクサンダー ジョイカートライトという人によって最初のルールが作り上げられました。このときルールは、14項目から成っています。(20項目、15項目、13項目という説も有る)今の野球とはかけ離れているルールもありました。例を挙げると下のようになります。
- 投手はアンダーハンドで投げる。
- 先に21点取った方が勝ち。(両チームとも同じ回数を行う)
- フライを直接取るか、ワンバウンドで取れば打者はアウト。
しかし、下のように今でも生きているルールもあります。
- ベース間の距離は90フィート(27.43m)
- スリーアウトでチェンジ
- ファウルのときは得点も進塁もできない
1845年にルールが出来上がると、1858年ヘンリー・チャドウィック(別名「野球の父」 Eng: father of baseball )という人物が、初めのルールブックを作りました。同時にボックススコアも考案しました。(ボックススコア:新聞に掲載される試合成績表。)現在でも、その形は変わっていなく、そこらへんの新聞でも見ることができます。
チャドウィックは1824年10月6日生まれ。青年時代は音楽の先生。1858年にルールブック編集、およびボックススコア考案、記録法を発明。1888年に野球年報記者になり、1908年5月20日に84歳で死去。
日本の野球の始まり
1872(明治5)年。開成学校のアメリカ人教師ホレス・ウィルソン(英語教師)らが、母国から持参したボールとバットを用いて学生たちに野球を教えました。
その後、武道精神や武士道といった日本の伝統的な文化と融合し、精神主義の色を強めながら『学生スポーツ』として独自の成長を遂げていきます。
一方で、社会人を中心としたチームも結成され始めます。伝来から6年目の1878(明治11)年、アメリカ帰りの平岡煕(ひらおかひろし、職業は鉄道技師)は、わが国初のチーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成します。このクラブに入会するには、ブルジョワ階級(ものすごい金持ち)でないと入れませんでした。会費1ヶ月1円(米一升が9銭)
この時代、本格的に野球をするには、用具が高かったため、金持ちしか参加できませんでした。一高、慶応義塾、早稲田などに広まり始めました。
そのうち、子供たちの間でもベースボールが浸透してきました。この場合、ユニフォームとかグローブとか、本格的なものではありませんでしたが。
1894(明治27)年には、それまでベースボールは「玉遊び」「打球おにごっこ」「底球」などさまざまな名前で呼ばれていたが、ベースボールに「野球」という和訳が登場しました。この訳は、旧制一高OBであった中馬庚(ちゅうまかのえ)によるものとされています。
1905年、早稲田大学の野球部がアメリカに遠征しました。安部磯雄部長以下13名ばかりの少人数での遠征でした。26試合して、7勝19敗の結果でした。
ここで重要なのは成績ではなくて、アメリカ土産でした。このアメリカ土産が日本の野球発展に大きく貢献することになります。実際の技術はもちろんのこと、ユニフォーム,バッド,ボールなど沢山のものを持ち帰りました。その中には、スコアブックや記録法もありました。
直木松太郎は、慶応技術大学中に野球規則を翻訳出版しました。後に、東京六大学野球連盟の規則委員を務めていました。また独自の野球記録法を考案して全国に普及しただけでなく、実戦セオリーやルール、記録などを慶応の選手に徹底的にたたき込みました。彼は「野球博士」「スコアブックの父」と呼ばれていました。
この記録法は、愛弟子の山口以九士(やまぐちいくし)に受け継がれ、今日ではプロ野球の記録法として残っています。ちなみに、平岡熙、安部磯雄、中馬庚、直木松太郎、山口以九士は殿堂入りをしています。明治野球史の急所とも言う言えるべき人物です。
カートライト
ここではカートライトについて詳しく記述します。
カートライトが住んでいる町マンハッタンでは、火事が非常に多くて悩みの種になっていました。そこでカートライトは、その対策のためにボランティア消防団を結成しました。しかし消防の作業は、団結力と体力が必要です。団員は事務系の人間が多くて、体力不足のきらいがありました。また消防団はまだ結成したばかりであるから、メンバー同士の面識も薄いです。そこでカートライトは、消防団員の健康と団結のために何かスポーツはできないかと考えました。
彼が最初に注目したのは、タウンボールと言うスポーツです。タウンボールは、投手が打者に対してボールを投げ、フィールドに4つの塁があり、守備を行うべきプレイヤーが散らばっているという点では、ベースボールと非常に良く似ています。しかし以下のように決定的に違う点もあります。
- ファウルラインはなし。
- 塁についていないランナーにボールを投げ当てるとアウト。
- 1回アウトになると、攻守交替する。
- 投手は下手から、打者にとって打ちやすいボールを投げること。
ボールはやわらかいものを使っているので、当てられてもそれほど痛くないです。打者にとって打ちやすいボールを投げるので、フィールドを飛び回る回数は必然的に多くなります。つまりとっつきやすいスポーツともいえます。カートライトは、「これは良い!!タウンボールは思い切り体を動かすことが出来、団員の結束につながるだろう」と思いました。しかしタウンボールは、もともと子供の遊びであり「幼稚くさい」イメージがありました。
彼は 「この遊びを、なんとかもっと楽しめるスポーツにできないものか?」と考えました。考えに考え抜いた改良ルールに、周りの助言を加味して、全20条から成る綱領がまとまった。
重要なポイントは、
- ファールラインを設ける。
- ランナーに球を当ててアウトにする代わりに、塁に球を送ることでランナーをアウトにする刺殺を設ける。→ボールが硬球になる。
- アウト3つで、攻守交代。
ファールラインは「やる」側と「見る」側の分離を引き起こし、結果として「見る」スポーツへの発展の1歩を踏み出ました。ランナーに球を当てて、アウトにならなくなったことは、それまでに使っていた柔らかいボールから、飛距離の出る硬いボールの使用が認められることになりました。またそれまでは、アウト1つで攻守交代だったため、あっけなく攻撃終了という欠点も解消されました。その他には、塁間をそれぞれ90フィートに定めることや、守備側のポジションを明確にし、また驚くことにすでにボークの規定までありました。
現在のベースボールとの決定的な違いは、まだ9イニング制を採用していなく、先に21点を先取したチームの勝ちとすることです。今では当たり前になっている二塁手と三塁手の間に遊撃手を配置することや、1チーム9人とすること、投手の上手投げが認められるのもこれより後の話です。