明治以降、開国に伴って、洋風のスタイルが日本に入り込みました。 それは服装や化粧も決して例外ではありません。男性の場合、軍服や 制服の登場によって、比較的簡単に洋装化が進んだが、女性の場合は 華族を除いて、大正期まで待たなければなりませんでした。化粧の 場合も同じで、すぐに皆が洋化粧を取り入れたわけ ではありませんでした。戦前までは和化粧が主流で、洋化粧が 流行ったのは、そんなに昔のことではなく、戦後になってからです。
江戸時代の化粧は、赤,白,黒の三色で代表できます。
赤: 赤は口紅であり、当時は紅花から赤を取り出していました。 「紅一匁金一匁」といわれるように、紅花は非常に高価でした。 濃く塗ると玉虫色に光るので、質実剛健をキーワードとする武家 の間では、薄く塗るのがベターでした。濃い紅は贅沢の象徴でも ありました。
白:白は「白粉」で、鉛から作った鉛白が主流でした。鉛白は 毒性があります。しかし明治に入るまで、ずっと使われていました。 (こう考えると女性の執念は恐ろしい。)白粉に紅を混ぜた「紅入り 白粉」もあり、今で言うチークの役割を果たしていました。
黒:黒は眉化粧とお歯黒です。お歯黒は平安時代から続く風習で、 江戸時代は女性が結婚するときに、歯を染め始めるのが通例でした。 しかし明治時代以降、お歯黒は諸外国にはない野蛮な風習として 受け取られ、華族を中心に、少しづつではあるが、消えていった。
明治以降の化粧品における大きな変化は、白粉が 白い粉から肌色に変わったことです。それまでは紅入り 白粉以外は、白色の白粉でありました。ちなみに当時は肌色とは 呼ばず、「肉色」と呼ばれていました。 また鉛白の毒性が社会問題になったのは、明治二十年代 になってからであり、徐々に鉛が含まれない白粉に変化し、 昭和10年には鉛白の使用と販売が全面禁止になりました。
明治以降、日本人は欧米人に比べて、目がはれぼったい ことに気づきました。その結果、目の凹凸感、立体感を意識 するようになり、アイシャドーが徐々に広がりました。
昭和初めになると、バンビ目が望ましいと言う記事 が登場し、目頭に紅を目立たない程度に塗り、まつげに 墨を入れる方法が紹介されました。
当時、アイシャドーをよく使う人は一部であり 、一般人に浸透するようになったのは 1960年代になってからです。
明治時代、口紅は練口紅や水口紅が用いられました。 大正以降、頬紅やリップスティックが用いられるようにな り、大正7年に国産のリップスティックが販売されるようになりました。 当時は口紅は点す(さす)ものであり、 塗るという意識になったのは、戦後しばらくしてからです。
1950年代は「スクリーンモード」の時代であり、映画が社会に及ぼす 影響は非常に大きかったです。これはファッションも決して例外では ありませんでした。当時の映画の技術はまだ未熟で、肌色が薄いピンクに 見えました。しだいにこれが、あこがれの対象になり、ピンク化粧を 流行らせる引き金になりました。
ピンク流行の理由は、映画以外に、 蛍光灯の普及があります。当時の蛍光灯は、演色性が決して良くはなく、 黄色や青の光が多かったです。そのため肌がくすんで見え、健康的には 見えませんでした。そこで少しでも健康的に見せるために、血色が良く 見えるピンク系が好まれるようになったのです。
1950年代半ばになると、アイメークが注目されました。この時は、 アイシャドーは目の欠点のカバーや夜のメーキャップに使われるのが、 主流でした。
1950年代後半になると、太陽族,ロカビリー族などの若者文化が登場 しはじめ、音楽が流行を引っ張るようになりました。音楽がファッションに影響を 与え始めたのです。大流行したメーキャップに「カリプソメーク」がありました。 歌手の浜村美智子が「バナナボート」でデビューしたときのメーキャップより 名づけられました。(変な妄想をするのは俺だけか)当時の雑誌によると「顔全体を熱帯女性風に褐色でぼかし、チークは 一切つけずに、眉と目に派手なアクセントをつけ、唇の輪郭をくっきりと描く 化粧方」と説明されています。(「若い女性」1957年8月号より)
また口紅の色もベージュや白,黒までも登場し始め、「口紅赤一辺倒主義」は 徐々に崩れ始めました。
1964年になると、ブラシでさっとはくブラッシュタイプのチークが 登場しました。手を使わず、自然な仕上がりで、メーキャップ初心者でも 気軽に使えたため、あっという間に広がりました。そして現在でも 生きている方法です。これまでのチークは、クリーム状や練り状でした。
1960年にパール光沢が入っている口紅が販売されました。パールは、 その名のとおり真珠みたいな光沢です。このことによって口紅は、 色だけでなく、色の持っている質感にも注目されました。また1960年後半になると、 口紅のバリエーションが広がりました。アーモンドやベージュなど、色相が 増えたり、パール感を持たせたものや、金色や銀色の 金属光沢を加えたもの、透明感のあるもの、マットタイプのもの、さっぱりしたもの、 べったりしたものなど、口紅も複雑に細分化されました。
70年代の化粧の特徴は、アイメークにあります。これまでのアイメークは、 若い女性が中心でしたが、70年代に入ると30〜40代の女性にまで広がりました。
公害問題、オイルショック、大気汚染(光化学スモッグなど)など 、民衆の環境問題の関心が高まりました。それを背景に「自然志向」 「ナチュラル」がキーワードになり、ファッションやメーキャップ も例外ではありませんでした。化粧品を使いながら、自然な顔に見せる 「ナチュラルメーキャップ」が活発化し、それは現在でも生きています。 しかし肌を自然に見せるには、自分の肌の特性を知る必要があります。 またメーキャップのテクニックも要求されます。雑誌でも「この化粧品を 使うとこんな効果がある。」「このタイプの肌にはこのファンデーション が向いている。」などかなり詳しい情報が掲載されるようになりました。 人工的でなく、自然的な顔は、自分の持ち味を生かすことに通じ、「素顔」 が市民権を少しづつではありますが得始めました。口紅も「アースカラー」 に通じる茶色(ブラウン系)が多く登場し、支持されました。
1980年代半ばを過ぎると、従来的な社会的な枠組みが崩壊し始めました。 男らしさ、女らしさなどが不鮮明になり始めたのです。それを背景に 「ファッション=女性、化粧=女性」などの等式もかなり怪しくなりました。 (今ならこの等式間違っているよな)1980年半ばには、「メンズノンノ」 をはじめとする、男性向けのファッション誌もたくさん登場しました。 「大衆(肩書き)から個人へ」、この変化がポイントです。時代としては、 個人のレベルまで細分化され、さらに一人十色といわれるほどに、自分の中でTPO による使い分けが要求される時代になりました。
1980年代:個人化 → TPOによる使い分けが要求される。
メーキャップの場合、常にナチュラルなメークだけではなく、 アフターファイブは普段とは異なるメーキャップをして楽しむような、使い分けが できる人が現れ始めました。「パーティーメーク」「勝負メーク」「晴れの日メーク」 「きれいなお姉さんメーク」などの言葉は、TPOによってメーキャップを使い分けている 例です。これに伴って、色に関心を持つ人も多くなりました。「 ロマンチックなイメージにしたいから、この色にしたらどうかな?」と考えるよ うになるには、TPOを意識しないと(⇔流行に流されるだけでは)、かなり 難しいものです。パーソナルカラーという、肌の色や 目の色,顔立ちなどで、似合う色を割り出すコンサル ティングが日本に登場し始めたのも1980年代です。(ただ問題も多かったけど。)
またこの80年代真ん中以降、小さな顔が流行しました。 これは、メーキャップに影響を与えました。(例:どのような チークやファンデーションを使えば、小さな顔に見せれるんだろうか。) 後に「小顔」と呼ばれる現象です。また平均身長が高くなったのが背景に、 欧米ファッションを着こなせる人が増え始めました。(特に女性)
1990年代は「茶髪」が流行し始めました。髪を染める人は大幅に増加し 「黒髪絶対主義」は崩れました。初期は反対していた年配の人も、今 は「白髪染め」を頻繁に行っています。意外と早く社会に受け入 れられたといえます。
また「オゾン層の破壊」を背景に、紫外線をカットする化粧品が新しい マーケットになりました。1990年〜1990年代中盤までは、白い肌志向が 続きました。しかし1990年代後半、流行の肌色は黒に逆転しました。俗に言う「ガングロ」 です。安室奈美恵やナオミ・キャンベルの影響とも、黒人系の音楽の影響とも いえます。ちなみにガングロの語源は「ガンガン黒くする」です。またガングロ系ファッション雑誌として、 有名なのは「egg」です。(ちなみに今も刊行している。) 2000年を過ぎると、浜崎あゆみの影響で白い肌が流行しました。 もっとも浜崎あゆみだけではないのですが。これらによって、ガングロ少女は かなり減少しました。
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